体温

projetdelundi2008-05-15

2歳頃まではスキンシップがいちばん大事だという。妻が育児書で読んだことをわたしに受け売りし、それをまたわたしが受け売りしているのである。
その教訓を聞くまで、あんまりべたべたするのもどうかと思って遠慮していたが、これからは臆面もなくスキンシップを全開にしようと思う。なんたって教育にいいのである。
保育所から家へ連れ戻して床に降ろすとまず抱きかかえる。「きょうも保育所ご苦労様」と抱きしめたら虎太郎(1歳2ヵ月・11.6キロ)は全力で突き飛ばしてわたしの腕を逃れようとする。か弱い父は怪力赤ちゃんによって床に転がされるのであった。
絵本を読み聞かせするときは膝のうえにのせたほうがいい。膝からからだのぬくもりが伝わっていくのが教育にいいのである(これも受け売りの受け売り)。
けれども、台詞が長い絵本はなかなかページがめくられないので退屈になり、またわたしを突き飛ばして遊びに出かけようとする。仕方ないのでテープの早送りみたいな調子でべらべらーと読んだら妻にダメ出しされた。なんていっているかわからないと言葉を覚えられないので教育に悪いわけである。
わたしがいちばん好きな絵本は『おさじさん』でもう何回も読んだので台詞を覚えてしまった。
「おやまをこえて のはらをこえて おさじさんがやってきました なにかおいしいものはありませんか? わたしがたべさせてあげましょう」
おさじさんはスプーンである。おいしいものをみつけて旅をしているのは自分が食べるためではなく、ひとに食べさせてあげるためだ。自分の欲望を満たすことより、自分の変えようもない生まれついた「かたち」がひとの役に立つことによろこびを覚える。おさじさんのかわいさやさしさはわたしの生きかたのある回路を刺激するみたいで、1ページ目を立ち読みした途端に大感激しながらレジへ持っていった。
虎太郎に意味が伝わっているかどうかはわからない。わかったとしても絵本にでてくる「たまごのおかゆ」がおいしそうだぐらいのもんであろう。わかってないくせに絵本に夢中になったときには落ち着きのない虎太郎にしては珍しくじっと膝のうえで5分10分と絵本を見聞きしている。そんなときはあたたかいものが交流しあっているのを感じる。
ネコもそうだ。大学をうろうろしていたネコはつかまえてもぷいとすぐいなくなってしまう癖に膝のうえにいつまでもいてわたしと誰かとがずっと話をしているのを聞いていることがあった。それはわたしの数少ない動物をかわいがった経験である。ネコが話を理解しているはずはないが、うなじをなでられたりしながらひとの体温を感じながらやすらっていた。
自分が父の膝のうえでそんな時間を過ごしたという確たる記憶はないけれども、「やすらう」という言葉から指し示されるおぼろげな体験の感触が記憶の底のほうでゆらめいている感じがある。なんだかわからないけれどもここにそうしていてもいいという感じだろうか。なにをするでもなく面白いとか刺激があるということでもなく、ただ許されている、なんとなく心地いいというような。
理解することとは言葉によって意味を理解することだとわたしは思いすぎてきたのかもしれない。体温によって連帯することをも理解しあっていることだと呼んでいい。

おさじさん (松谷みよ子 あかちゃんの本)

おさじさん (松谷みよ子 あかちゃんの本)