犬の鳴き声

projetdelundi2007-11-07

今日も息子の虎太郎(8ヶ月)と公園へ行った。
隣りの家で犬が鳴いていた。アオーッ、アウアウアウ、アオーッと鳴く犬だった。
わたしは犬のものまねをしてみせた。アオーッ、アウアウアウ、アオーッ。「ワンワン」じゃなくて、恥ずかしいぐらいの本格ものまねである。わたしは人間をやめて犬になりきっていた。
虎太郎は大爆笑した。笑いが止まらなくなった。手をベビーカーに叩き付け、息がつづかなくなって苦しそうになっても、アウッアウッとはじめるとまた笑う。
これは虎太郎がギャグを理解するはじめだった。
いままでは、くすぐったり、顔を近づけたりしたときに、それに対する反応として笑っていただけだ。
サルも笑う。でもそれは反応の笑いにすぎず、バナナの皮で転ぶコメディアンを見ても決して笑わないはずだ。大人にとってはもっとも低級な笑いだが、おもしろいことだと「理解」できなければそれすら笑うことはできない。
ものまねで笑えるのは、動物から人間へ進化しつつあるしるしなのだろう。
では、なんで犬の鳴き声だったのか。
生後1ヶ月ぐらいの頃、虎太郎の寝言がひどくて眠れなかったことがある。
数十種類の動物の鳴き声みたいなのを一晩中うなり続ける。犬、猿、羊、カラス、ライオン、その他いろいろなのがいた。
人間というのは最初はどんな動物の鳴き声も鳴くことができるのだ。それをいっぺん練習でやってみてから、人間の声を探し当てるものらしい。
そのあと、ある日の昼間、カラスが飛んできてカアカアと何匹かで呼び交していたら、寝ていた虎太郎がカラスの呼びかけに応えてカアカアと叫びはじめた。
この子は実はカラスの子だったのかと、背筋がぞっとしたものであるが、いまは幸い人間の子供らしくしている。
赤ちゃんは大人未満の動物である。人間になってしまった大人がもう動物のことをよくわからなくなっているのとちがい、赤ちゃんは動物とコミュニケーションする本能を失っていないのかもしれない。赤ちゃんが大人に意志を伝え、大人の意志を感じとる方法も、動物同士がコミュニケーションするようなやり方であるのだから。
大江健三郎の小説でこういうシーンがあった。
幼い長男は知恵おくれで言葉を発することができない。ただ鳥のレコードだけは好んで一日中聴いている。鳥の鳴き声があって、そのあと「これはアカゲラです」とか鳥の名前を教えてくれるというレコードである。
ある日、軽井沢で長男を連れて散歩していると鳥が鳴いた。すると、長男は「これはアカゲラです」とレコードの言葉をつづいて発した。
これが長男の喋る最初の言葉だった。
このエピソードと虎太郎がものまねを理解した出来事には「鳴き声」が共通している。
きっと赤ちゃんは大人以上に動物の鳴き声を理解している。理解しているからそれを足がかりにできて、普段は手の届かない大人の地平を垣間見られたのではないか。