飛び石

projetdelundi2007-11-21

きのうのつづき。
川を渡り切ると林があり、そのなかを抜ける山道がある。
急な斜面は一歩ごとにわたしを地上から遠ざけ、さっき見た川の景色はバードビューとなる。
川のなかに散在する石もいまや上から見ている。あの現実離れした幽遠さが明るい魅力へと変奏されるのだった。
光の加減で水の色も変わる。さっき曖昧な深緑色に見えていた水は、ここからは川底まで見えるほど透明だ。
水観音堂跡に立つ。山上に基礎部分の石だけ残されているのが古代遺跡のようでかえって趣き深い。京都の清水寺と同じく、風景を俯瞰するための見晴らし台である。
下ってきた山道が優美な曲線を描いて、川のなかへ進むと飛び石に変わっている。
晴れ着の女の子がいる。きょうは七五三の日で、近くの東京大神宮へでも行った帰りなのだろう。
こんどは男の子がやってきた。飛び石を次々と飛び渡っていく。さらに小さい子供がやってきた。恐る恐る足を伸ばしてとなりの石に足をかけよろめきながらゆっくり渡る。さらにさらに小さい二つぐらいの子供がやってきて、この子はお父さんにからだをつかまれて操り人形みたいに足をぶらぶらさせながら川を越えていくのだった。
わたしは子供の頃、岡山の後楽園に行って、テンションが上がって池を巡る道や橋の上を走りまわったことを覚えている。小石川後楽園にいる子供たちも親に連れられて無理にというより、庭園を踏破することが楽しくて仕方ない様子である。
もちろん子供たちがここに風流や深淵な美があるなどと理屈で解しているはずもない。感じとり、感じたままからだを動かす。
風景のなかを巡る欲望というものがある。踏破をすること、風景を見ること、自分も風景になること。