崩れ

projetdelundi2007-12-10

旅や散歩の本紹介シリーズの第何弾目か。
幸田文という文豪が齢七十にして突如ガケ崩れに目覚め、日本中を巡る。
どういう情熱が奇天烈な旅へ押しやるのかといえば、
「車から足をおろそうとして、変な地面だと思った。そして、あたりをぐるっと見て、一度にはっとしてしまった。(中略)気を呑まれた、というそれだったと思う。自然の威に打たれて、木偶のようになったと思う。とにかく、そこまでは緑、緑でうっとりしていて、突然そこにぎょっとしたものが出現した」
とやっぱり現実離れの仕業である。
そこからの感受性の展開は独特だ。ガケ崩れに同情をはじめるのである。
「好んで暴れるわけではないのに。災害が残って、人に嫌われ疎んじられ、もてあまされる。(中略)同じ無心の木でも石でも、愛されるのと嫌われるのとでは、生きかたに段のついた違いがでる。(中略)私には可哀想な川だと思えてならなかった」
これを読んで中上健次の小説を思い出した。こういう鼻つまみのぐれた若者にあたたかい同情をかける母性深いオババが主人公の育った路地に必ず住んでいる。
それから三田佳子のことを思い出した。みんながダメ息子だと思うような子供でも、親にしてみればかえってかわいい、あるいはみんなに疎まれているからこそ自分だけが守ってやらなくてはと思い、ますます不憫に思うわけである。
つまり、幸田文はぐれた川の母親になっている。
著者は足腰が立たないのでひとにおぶってもらって岩だらけの谷川や荒廃した急斜面を越え、火山のカルデラや富士の頂きにある崩落地へたどりつく。火山礫の転がる荒地をオババが悪い足を引き摺りながら歩いていく光景は想像するだけでコミカルで不気味である。
ガケ巡りとはこの人にとって墓参りみたいなものなのではないだろうか。お年寄りというのはお墓を雑巾で拭いたり、草むしりをしながら、
「寂しかっただろうね。いまきれいにしてあげるからね」
と墓という物体に向けて、まるでひとのように同情し、話しかける。
わたしはこのひとの文章が好きだ。いろんなところを飛び回り、読む者を連れまわす。
それはなんなのかと考えていたらこういう文章があった。崩れから帰宅すると首と腰が痛くなっていたことについての理由がこう書かれている。
「あれはきっとからだ中で、あの風景に呑まれまいとして抵抗していたのかと思う。目と耳は奪われていたと思う。目と耳は引きずられたのだから、ここが私の弱さだろうし、いい方をかえれば、感覚過敏だったといえる。首と腰は突っ張ってこらえたのだから、多分目や耳より頼もしかった。(中略)首も腰ももっていかれてしまっては、それこそ私の崩壊になってしまう」
取り返しがつかないほどガケに目を奪われ、現実離れしそうになったのを首と腰の力でかろうじて耐えたというのである。
この人は五感どころではなくからだで感じたことまで書いているのだ。だからときには五感以上の第六感にもとづく、突飛な飛躍や論理の破調もあって当然である。
筋肉の記憶というのはたしかにある。パリを歩くと、石畳のでこぼこに歩きづらさを感じて、足の裏から膝あたりまで、日本で経験したことのない痛みと疲れを覚える。光の種類もちがっていて夏にいくと目が痛くなる。冬には一日も晴れ間がなく、頭上にのしかかるような曇天は精神を鬱々とさせる。
坂の多い街と平坦な街では疲労のしかたもまったくちがう。肉が名物の街と魚が名物の街では胃袋の疲労感も異なるだろう。海と山でも肌に受ける潮風と山風では爽快感も健康に与える影響も別様だ。
筋肉の記憶による旅行記、あるいは疲労家の紀行文という隠された系譜が存在している。
それはそうと目と耳がどこかに持っていかれるほどの現実離れ感覚が存在しているという話には衝撃を受けた。
現実離れ研究家としていつかは体験してみたいものだ。

崩れ (講談社文庫)

崩れ (講談社文庫)

写真は三田丘の上公園。ガーデンプレイスの南。ロビュションのパンを食べたところ。ロビュション三ツ星獲得の報を聞き、向こう3年はレストランで食べることをあきらめた(ディナーは無理だけどランチはお値打ち)。こういうときには……サンドイッチをピクニッケすればいいのだ!