静寂を探して

projetdelundi2007-12-15

ベビーカーを押して家の近所で静寂を探した。
団地にたどりついた。この団地は青山北町団地や阿佐ヶ谷住宅とちがって古いといえども生活者の気配が濃厚にあって静寂はなかった。
建物のまわりの緑地帯には桜の木が植えられている。団地の前にはS川が流れていて、桜並木が有名なところなので、それに呼応してのことだと思う。春にこの団地は桜の海を漂流するだろう。
すべての葉っぱが落葉し、木は裸だった。一枚も残っていない。黒々とした枝の無数の先端が青空を突き刺していた。
わたしは冬を恐れていた。もう何十回目の冬なのにそれでも冬は未知である。
わたしは自然について途方もなく無知であるがゆえにそれはいつまでも未知のままだ。だからこの冬のことを少しも知らない。少しずつは季節に対する感受性を更新してはいるのだけど、そのためにむしろ毎年毎年冬を迎えるスタンスがちがってしまうので、わたしにとっては去年の冬と今年の冬はまったくちがうものだ。
葉を落としぜんぶの枝をあらわにした木がどれほど痛々しく殺風景なものかわたしは恐れていた。去年それがわたしの目にどう見えていたかもう覚えていないか、まったく見ていなかったからだ。
裸の桜の実物がわたしに抱かせた感想とは、「本年の営業は終了いたしました」というものだった。謹賀新年という挨拶とともに桜の幹に貼り紙がぺたり、そういう感じだった。
あるいは散髪にいった直後の知り合いにあったようなさっぱり感。安心した。冬には冬の風景がある。
木だって年がら年中植物をやっていられないのだ。たまには休んでいいのである。日本には正月休みがあり、西洋にはクリスマス休暇がある。冬は休むのが当たり前なのだから、こたつに入ってごろごろすることに引け目を感じる必要などない……わたしのように一年中そうだとしたら問題あるが。