頭の上

projetdelundi2007-12-17

S公園に向かった。
池のまわりを園路が巡って敷石がしかれている。
石と石のあいだの溝にベビーカーのタイヤがぶつかってドトドトと鳴った。
自動車が普及する前、馬車が石畳を行き交っていたパリの空に響きわたっていた無数のドトドト音を想像した。
それに小鳥が鳴き交わす音がかしましく静寂はなかった。
ビーッビーッと断続的に鳴く鳥とキルーッキルーッと鳴く鳥がいた。
ベビーカーに仰向けの虎太郎(10ヶ月)は空を見ていた。仰向けにされからだを起こすこともままならないのだから、ベビーカーに乗っているときの虎太郎はいつも空を見ている。
虎太郎が見ているものを見たくて空を見上げた。湖畔にそびえる、葉の少なくなった樹々の枝が幻灯の影絵のように次々と移ろい流れ、木漏れ日がフラッシュみたいに明滅する。
ジム・ジャームッシュの『ダウン・バイ・ロー』でトム・ウェイツジョン・ルーリーロベルト・ベニーニが森のなかを逃走するシーンを思い出した。
枝から枝を小鳥たちの影が飛び渡る。どの小鳥がビーッと鳴き、どの小鳥がキルーッと鳴いていたのかはやっぱりわからないけれども。
すっ転んでしまうのでずっと空を見上げているわけにはいかなかったが、頭上の景色は退屈ではなかった。地上よりも変化と物音に満ちているといってもいいぐらいだ。だから虎太郎も退屈ではないだろう。もっとも退屈ならば間髪いれず泣き叫ぶのが赤ん坊というものなので、その心配はない。
実際のところ、虎太郎がこの風景をどう見ているのかはわからない。虎太郎は『ダウン・バイ・ロー』も、その他『羅生門』のような森のなかを走る人がうつくしい映画も見たことないし、それどころか空という言葉も、鳥という言葉も知らない。ビーッやキルーッという音と視界を横切っていくちいさな影が関係していることすらまだ気づいていない。
わたしはいつも我が子の視線を目で追う。まだ言葉を知らない目に憧れているのだ。彼のように純粋に風景を見てみたいと願いながら、それがどのように見えるかまるでわからない。言葉を持たない者が言葉を語ってわたしに教えてくれることはないからだ。
話すことは風景を交換しあうことにほかならない。あるいは相手の見る風景を想像しあうことかもしれない。わたしという視点、あなたという視点が見る風景はこの世にひとつしかない。
わたしが本当に見たいのは風景自体というよりそのことの途方もない不思議さなのかもしれない。

宮下公園の写真