続ランドスケープ現象

projetdelundi2007-12-24

ふたたび荒涼のうつくしさについて。
圧倒されるような風景を同時に見ている2人には同じ感情が沸き起こらずにいないはずだという仮説、それがランドスケープ現象である。
卑近な例でいうと、デートのとき夜景を見に行って親愛感を深めるというのがもっとも一般に浸透したこの現象の応用例である。
わたしにとって忘れられない光景がある。
数十年ぶりの豪雪のときを選んでわざわざ北陸へ行った。2mに及ぶ積雪によって交通は寸断され柏崎という街から出られなくなった。5時間待ってやっときたバスに乗り込んで原発を見に行った。原発は雪だらけの山中にあって、停留所で降りたが最後遭難する危険性を感じたので、降りずにバスの終点まで行ってそのまま折り返してくることにした。
バスは山を下り、田んぼの広がりがただ真っ白な平原と化している場所を通り抜け、突然海へ出た。
海岸も空も降りしきる雪もすべて白い風景のなかで、暗緑色の液体が波打っているのだった。冷たく暗い水がゆっくりと、しかし恐ろしいような確実さで揺れていた。
それは風景という言葉の範疇を超えていたかもしれない。
ひとになじんでくるような感じ、親近感をその海岸は一切拒んでいて、わたしのなかに記念写真として保存できるような小ささ甘さはみじんも感じさせないのだった。わたしは海をただ畏怖しながら眺めるほかはなかった。
同じバスのなかに窓外の風景を一心不乱に見つめる老婆がいた。刻まれた深い皺の奥の瞳をまるで動かすこともせず海を見つめる眼差し。その目をいまも忘れることができない。
おそらくは生まれたときから70年80年と同じ海を見てきたはずの老婆に、なおこの海が訴えかけ、圧倒してくる。風景のもつすごみに、わたしは打たれたのだった。
人里離れた豪雪地帯に生まれ住むという、わたしの想像の埒外にある暮しを生きている老婆と、明日には東京へ戻る通りすがりの旅行者であるわたしとが、同じひとつの海を吸いつけられるように見つめているということ。
その思いが同じであるはずなど決してないのだが、それでも、あの海を見たら誰でも同じ畏怖を抱かざるをえないとわたしは思う。
海のそばの集落でその老婆はバスを降りていった。路肩に積もったほとんど自分の背丈ほどの雪を掻き分け、不自由な足で踏みしめながら。