projetdelundi2008-01-25

どういうわけで龍が変転したものか自分でも理由がしれない。
2、3日前に自分の目でみたはずのことなのにありもしないことを原稿に書いていた。
不忍池弁天島の手洗い場では龍が口から水を吐いている、とそのようなことを記したのであった。
3日ぐらいしてふと記憶が怪しくなっている、と気づいた。龍の口から水が出るなんてライオン風呂でもなしにずいぶん突飛すぎないだろうか。
しかしそのイメージは眼前にありありとしてたしかに見たとしか思えないほどだし、無意識がねつ造したことを現実のように思って書き付けるほど自分の正気が定かでなくなっているとも信じたくなかった。
龍の口は夢か現実か。どちらとも決めかねるままはざまで不思議な心持ちに漂いながら幾日か過ごした。
嘘を書くわけにもいかないのできょう上野に行ったついでにまた不忍池を訪れた。先日も書いた通りに枯蓮が眼路はるか一面に繁茂して現実離れを起こすことは相変わらずであった。高さ約1・5mの立ち枯れた植物が延々と並んで、何千本、何万本という数字になるのか見当もつかない。
日本伝統の数学では兆の次は京、その次は垓となって、さらにいろんなのがあって、もっと多くなると不可思議とか無量大数とかいう単位になる。科学なのに自分でわからなくなって首を捻っているみたいでなにか変だと思っていたが、人間の脳の仕組みや生理というものにむしろ忠実なのではないかと思った。
人間の脳は数えきれないものをみるとすぐオーバーフローしてしまう。パソコンの画面がときどき飛ぶのは、計算不能の局面に出会ったからである。そんなふうに数えきれないほど同じものが繰り返す景色を見ると現実離れした感覚に陥るのは、脳のオーバーフローではないかと思った。
不忍池の湖畔を歩いて弁天島にたどりつく。島といいながら社へは道がつけられていて地続きである。と思ったらちいさな石橋が渡されていて、島としての分別は一応つけているようである。欄干に「天龍橋」という名が刻まれていて、これも龍であった。
境内にはふぐをかたどった石、メガネ、琵琶の形の石碑などがある。これらは供養塔である。ずいぶんさまざまな妙なものを供養しなくてはならないもんだと思った。人間や動植物どころかモノの霊までも彷徨っているとなれば目には見えないがこの世は霊だらけで足の踏み場もないはずで、これもオーバーフローである。(明日につづく)