あった

projetdelundi2008-05-23

虎太郎(1歳2ヵ月、11.6キロ)は「あった」という言葉をよく使う。床に落ちているおしゃぶり
を拾いながら「あった」といい、帰宅した妻を指差し「あった」という。言葉の使い方としてまんざらまちがっているとも言い切れない場面で発せられるけれど、どこまで意味を理解しているのかはわからない。
というよりも虎太郎に「あった」といわれるたび、わたしには「意味」というものがわからなくなってくる。言葉はそれにふさわしい場面で口にされさえすれば勝手に意味は成立する。「あった」ならなおさらだ。いつでもどこででもこの地球上になにかがあることはまちがいないのだから。
虎太郎と公園へ行った。家では手のつけようがないほどそこらじゅうを這いずりまわってありとあるイタズラをはたらくのに、ベビーカーから下りた虎太郎はおずおずとその場に立ちすくんでいた。
「あった」
どこかを指差しながら虎太郎はいった。しかし虎太郎の指先の延長線上にはただ漠然とした宙空があるばかりだった。
「あった」
こんどは虎太郎は真上を指差した。青い空があった。虎太郎は空があることにいま気づいたというのだろうか。空はいつも頭上にあるに決まっているからわざわざ見上げることもすくないけれど、青空には何度みてもあたらしくみるような感動があるから、「あった」という言葉は思いがけずふさわしいのだった。
「あった」
こんどは虎太郎の指先でモミジの葉が風にそよいでいた。葉っぱがここにあったと虎太郎はいいたいのだろうか。でも5月の透き通るような若葉は道すがらどこにでもあったし、いまこの公園でもわたしたちのまわりをとり囲んでいる。あるいは、あったのは風だろうか。モミジの葉が揺れるのを見て虎太郎ははじめて風を発見したのかもしれない。そういえばいま夜がちかづいて少し風が出てきたようでもある。
「はっぱ、はっぱっていうんだよ」
わたしは虎太郎が発見したものを、それが人間の世界でなんと呼ばれるのか教えてあげた。
「あ...っぱ?」
そのとき電流みたいにはじめて虎太郎とのあいだでコミュニケーションが成立したように思った。恐る恐る口にしたその言葉によって、視線の先と名前が結びつくことによって、虎太郎は世界をとらえて、わたしが受け入れている言葉と物の世界をわたしを通して受肉したのだった。といっても言葉はわたしが考えたものではない。誰が考えたものでもなく、あらゆるひとがそれを受け入れることによって成立しているようなものだ。だから言葉を覚えることはいまはただの珍獣にすぎない虎太郎が普通の人間一般へと参入していくことである。
だけれどもいま風の涼しさを肌に感じながら星形の青い葉が風に揺れるのをふたりで見ている。これは言葉の上では何度でも再現できるけれども一回きりのわたしと虎太郎にだけ共有できる個別の体験なのだった。わたしたちは言葉という誰のものでもないなにかを通じて、わたしでしかなく虎太郎でしかない二人だけの関係を確認しあったのだった。