欲望

projetdelundi2008-09-04

大阪でとても驚くのは商店街の猥雑さである。どの店も自己主張がものすごく、一直線につづく商店街のずっと先まで派手な看板が争い合い競い合って自分だけ目立とうとしているので頭がくらくらする。パチンコ屋やカラオケ店の店先からは歌謡曲が聞こえてくるし、風俗店が普通に商店街にあって、その前を若い女のひとが気にせず歩いていることにも文化のギャップを感じる。
タバコ屋で道を訊いたとき「ほなタバコ買うてくれたら教えてあげるわ」といわれ衝撃を受けた。大阪のひとびとは欲望を隠すことをしない。欲望をあらかじめ曝しておくことのほうがずっと正直で、親切で、上品であると信じられているようだ。そうかもしれないと思う。
堀江にあったジュースの自動販売機にはこう書かれていた。
「見栄はってカフェ行くな」
高い金を払ってカフェなんか行かずにこのジュースを買えというのである。カフェに行くことが見栄であるという認識はわたしにとっていままでなかったものだ。関西ではみんなでそういうことを指摘しあいながら生きていくのかもしれない。
商店街に建ち並んだ店々のファサード、看板は欲望そのもののようにぎらついている。パチンコ屋は金銭欲、お好み焼き屋は食欲、キャバクラは性欲。大阪では欲望のなかを通り抜けないとどこへもいけない。
阪急東通りという梅田の商店街をずっと歩いていった。はじめはぎらぎらした看板しか目につかなかった。端っこまでくると渋い古本屋があった。バタイユユイスマンスといったフランス文学の作家が目に入った。古本が欲望の末席に加えられていることを知り、ややほっとするものがあった。
古本屋の前にはマズルカという実にレトロな喫茶店があった。といっても、レトロを売り物にしているわけでもなく、むしろ古すぎるために誰の注意も惹かないようで、客は誰もいない。
アイスティーを頼むと店主は骨董品とみまがうグラスをカウンターに置いた。
「こんなのどこにも売ってないんじゃないですか?」
「親の代から使ってますからね。開店して40年ですわ」
カウンターの上のアルミのトレーに真っ白なフキンを敷いてコーヒースプーンが何本も置かれている。とても古いデザインだけれど輝くばかりにうつくしい。そのことから店主の律儀な性格がうかがわれるのであった。
砂糖壷も灰皿も棚に置かれたコーヒーカップも模様入りの磨りガラスもすべてが古くさいが汚れも破損もなくきれいに保たれている。そして壁に貼り紙とかポスターとか余計なものもなにもない。わたしは静かな店のなかで、タイガースが一面を飾る関西ならではのスポーツ新聞を心置きなく読みつづけた。
もし東京にこんな店があったらまたたく間にメディアに発見され「レトロスポット」として消費されるだろう。
わたしたちが喫茶店にいくのは休息するためであり、「ほっといてもらうため」である。ひっそりとした喫茶店の席でまるで造花の花瓶にでもなったみたいに風景に溶け込み誰に注目されることもなく自分の時間を過ごすためである。
けれども、ほっといてもらえそうな店は次々とわたしのようなマスコミ関係者に発掘され、公開されて世間がほっとかなくなる。静かであるゆえに騒々しくなるのであり、古いゆえに新しいと思われる。東京とは矛盾の渦巻きである。
大阪では静かにほっといてもらうという欲望もまたかろうじて息をついているのだった。他の多くのぎらぎらした欲望のなかに埋もれるようにして。