京都教会

projetdelundi2008-09-07

イコンのかかった金色の壁、金色のシャンデリアが、時間の降り積もった薄暗い空間に鈍い光を放っていた。ハリストス教会(ロシア正教)のミサに参列するのははじめてのことだった。すべてが司祭と合唱隊が歌う賛美歌のかけあいによって進行していく。ロシア的なとらえどころもないメロディーはエキゾチックでも畏怖の念を呼び起こすようでもあり、親密さを欠いた、いままで出会ったこともないような神のイメージが描かれる。
「主を讃えよ、主を讃えよ」
1時間半のあいだ繰り返される神への賛美。司祭とふたりの合唱隊はそのあいだずっと歌いつづけ、祈りつづけ、立ちつづける。神に願いを聞き入れてもらうためにはその努力でもまだ足りないぐらいなのかもしれない。神はあまりにも偉大であって、ひきかえ人間はあまりにちっぽけで弱い。当たり前の図式を忠実に儀式に置き換えるならば、ほとんどひれ伏すといっていいこうしたミサになるのかもしれない。
会衆はわたしひとりだった。椅子は用意されているのだが、以前ハリストス教会の正式な方法では会衆も座ってはならぬと耳にしたことがあったし、なによりこの4人だけの空間でわたしだけが傍観し楽をすることは許されぬ気がして、立ちつづけた。
夕方とはいえまだ暑さの厳しい夕方5時。なぜかすべての窓は閉じられている。汗がしたたってくる。足はしびれてくる。わたしは何度も何度も座ろうと思ったけれど、合唱のひとたちと司祭様の懸命な様子を見るとどうしても座ることができない。そのうち疲労は頂点へ達しはじめた。なにしろ朝の九時から炎天下の京都を自転車で乗りまわしていたのだ。
「主を讃えよ、主を讃えよ」
卒倒しそうになるのをなんとか最後の意志の力で耐えながら、目を閉じて賛美歌を聴いているうち、奇妙な震えが背筋を駆け抜けた。暑さが反転し、体の表面がシーブリーズでも塗ったみたいにひんやりとしてきたのである。感動なのか、幻覚なのか、神秘体験なのか、疲労が呼び起こす悪寒なのか。
ミサを終えて外に出た。夕暮れ間近の深い青さをたたえた空が目に映った。わたしの感覚も長いミサのあとですこしは浄化されたように思われた。隣の公園では朽ち果てそうなほどに古びた教会のレンガ塀の前で犬がわたしを見ていた。