アンナ・カリーナ
- 出版社/メーカー: 日本コロムビア
- 発売日: 2000/05/20
- メディア: DVD
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川喜田映画財団というスチール写真を無数に所蔵するライブラリに行っても『修道女』のだけはみつからないのだった。それでもあきらめきれずに『修道女』の配給会社やDVDの発売元などにあたってみたが、すでに契約が切れていて貸し出せないとのことだった。
妻の手元には十年以上前の『キネマ旬報』の切り抜きがあって、山田宏一さんのコラムに『修道女』のスチール写真が取りあげられていた。そこにはモノクロームでこれ以上ないうつくしさで動きをとめた修道服姿のアンナ・カリーナが映っていた。
妻は山田宏一さんに手紙を書き、『修道女スタイル』という本を出すので写真をお借りしたい旨をお願いした。するとたいへん丁寧な返事が届き、実は今ゴダールの本を書いているが、カリーナの写真を自分の本にも掲載できなくて困っているとのことだった。妻は返事をもらえたことにたいへん感激し、死んだらこの手紙を棺の中に入れてくれといった。
山田宏一さんには『友よ、映画よ』というヌーヴェルバーグのシネアストたちと過ごした60年代を振り返る著書がある。『カイエ・デュ・シネマ』誌の同人だった。ジャック・リヴェットもゴダールもフランソワ・トリュフォーもこの映画雑誌で批評を書いていた批評家である。一人で日本からパリまで出かけていって、私からしたら神様のような人たちと友達になった。
岡本太郎もいきなりパリにいってモンパルナスのカフェで議論をしているピカソらと友達になった。友達になれるように突飛なかっこうでうろうろしていたといっていた。
パリにはそういうところがあって、カフェで出会った知らない人が友達になったり、その出会いから歴史的な作品が生まれたりする。
ゴダールもサンジェルマンデプレのカフェで、その頃無名だったジャン・ポール・ベルモントを見つけて『勝手にしやがれ』の主演にしている。『友よ、映画よ』を読んでいると、ヌーヴェルバーグの名作に出ているのは大スターではなく、そこらへんをぶらぶらしている人とか、ただの友達とかそんな人ばかりである。
山田宏一さんがアンナ・カリーナに会いにいくシーンも感動的である。彼女はリュクサンブール公園の近くのアパルトマンの屋根裏部屋に住んでいた。屋根裏部屋というのはフランス映画とか雑誌とかでよく出てくるように、天井が低くて屋根の傾斜が邪魔になるし、エレベーターがなければ上るのがたいへんで、冬寒く夏暑いのでいちばん安い。
その部屋で撮った山田宏一さんが載った写真に、アンナ・カリーナは緊張した顔で、写真に撮られることにまったく不慣れな普通の人のような表情で映っている。映画ではあんなに躍動し、自由に飛びまわっている彼女は、スチールカメラの前で動きを止めることに慣れていないのである。
ヌーヴェルバーグは一夜にして映画の歴史を変えてしまった運動だったが、その歴史的出来事はパリのカフェをうろうろしているような普通の人たちによって成し遂げられた。なんかできるんじゃないかと思いながらなにもできなくて鬱屈してたり、昔の映画を名画座で見て異様に感動して盛り上がったり、そういうところから映画が生まれた。小さな個人の思いから映画がはじまっているゆえに観る人の心を揺さぶり、時代を超えてインパクトを持ちつづけるのだと思う。
『修道女』は、アンナ・カリーナを修道院に、あるいは修道服の中に閉じ込めた映画である。彼女の中ではいつも感情の太陽が燃えているように見える。その輝きが彼女の手足を動かし大きな瞳を燃え立たせているように思える。『気狂いピエロ』でギャングと逃避行して南仏の太陽が輝く海岸を嬉々として動き回っていたアンナ・カリーナは、翌年の『修道女』で自由を束縛される。黒い瞳に憂いをあふれさせている。はじけるような動きを、表情を、修道服の中に包み込んで、修道院の中を滑るように優雅に動いていく。あるいは感情があふれて泣きながら床にうずくまる。そのことに痛ましいうつくしさがある。
増補 友よ映画よ、わがヌーヴェル・ヴァーグ誌 (平凡社ライブラリー)
- 作者: 山田宏一
- 出版社/メーカー: 平凡社
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