長崎

projetdelundi2009-04-21

単行本『修道女スタイル』ガイドツアーはいよいよ長崎へ。長崎篇はこの本の後半3分の1を占める。
私にとって長崎は行ったことのない故郷である。両親は長崎の出身で、いつも長崎の話を聞かされて育った。しかし、私は住んだこともないし、子供のころに行っただけで記憶もおぼろげである。
なじみ深いにもかかわらず実際の風景はなにも知らないという不思議な土地。旅にはつきものなのかもしれないが、飛行機が飛び立つときには期待と不安がいつにもまして交錯していた。
行ってみても、ふわふわしていた。 昼間は教会をまわり、夜はカトリックセンターに泊まって、原稿を書いた。窓からはライトアップされた浦上天主堂の鐘塔が見えていた。24時間、教会のことを考えていた。2度目に行ったときもそうだった。長崎に降り立つと頭が教会のことから離れない(あとチャンポンを食べることがちょっと)。そうした事情のせいかもしれないが、長崎に行くと頭のモードが切り替わって妙に神妙な気持ちになる。人に魂のことについて考えることを強いる土地、それを聖地と呼ぶのだとしたら、長崎は私にとってそれである。
はじめて降り立った長崎ではずっと雨だった。電話で人に告げると「それは残念ですね」といわれた。でもそんなことはない。冬の曇り空の下、冷たい霧雨にかすむ教会はそのときの考えにとてもあっていた。長崎の教会を訪ねることは、キリスト教伝来以来の数百年のうちに、数知れない人びとがこの宗教に殉じて死んだことを思い出すことに他ならなかったからだ。
キリスト教とはなにかということを本で、あるいは人から説明を受けた。それはキリストが十字架につけられて死んだことをどう考えるかである。何度も聞き、考えもしたそのこと、「キリストが十字架につけられて死んだ」という同じ言葉が、長崎ではまったく異なる意味、深度、重大さを帯びて胸に迫ってきたのだった。
そんなことになるなんて、私がこの本を作りはじめるときには思ってもみなかった。もし計画通りのことしか起きないのなら旅をするのも、本を作ることにも意味がない。『修道女スタイル』は長崎へ旅することなくして、完成しなかった本である。