小さな昼食

projetdelundi2009-07-17

今度の8月17日発売の『パニック7ゴールド』連載「パンラボ」はクロワッサンを取りあげている。
クロワッサンの生まれ故郷はパリである。
クロワッサンは三日月という意味で、マリー・アントワネットが輿入れするときにウィーンから連れてきたパティシエがパリに持ち込んだものである。「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」というのは彼女の有名な台詞だが、お菓子とはブリオッシュのことを本当は指していたと聞いたことがある。マリー・アントワネットが食べていた時代のクロワッサンはいまのような層状のものとはちがっていて、ブリオッシュのようなバターが多い三日月型のパンだった。
クロワッサンがデニッシュと同じ層状のパンになったのは1906年のこと。だからクロワッサンがいまのような形になってからまだ百年しか経っていない。新発明のクロワッサンはパリで評判を博し、クロワッサンの改良者とされるコロンビエ氏の店の前には長い行列ができた。
パリの朝、忙しそうなカフェ。あの白いつるつるしたカウンターにはいつも茶色のパン屑が落ちているような気がする。ゆっくりと朝食をとる時間のない平日の朝は、カフェのカウンターで立ったまま、丸めて持ったフィガロに目を落としながら、クロワッサンを口に運んでコーヒーで流し込む紳士をよく見かけた。慌ただしく立ち去ったあとに残された、黒いコーヒーが数滴底に残ったエスプレッソカップと白いパン皿、カウンターの上の茶色いクロワッサンの細かな破片が、パリの朝の風景として記憶に残っている。私たちにとってはちょっと特別なパンが、パリではむしろなくてはならない、けれどありふれたものとして日常のなかに存在している。
朝食のことをフランス語でpetit dejeuner(プチ・デジュネー)という。昼食はdejeuner(デジュネー)であり、プチ・デジュネーを直訳すると「小さな昼食」ということになるだろうか。つまりフランスに朝食という概念は存在しない。正式なゴハンは昼と夜、昼までのつなぎとして朝は小さな昼食を口にする。いつかフランス語学校で生徒の誰かがなぜそうなのかと聞いていたが、先生は「だって朝から肉やおかずなんて気持ち悪くて食べられないじゃないの」といっていた。
日本でだって、特に血圧の低い女の人は、朝ゴハンにあんぱんやメロンパンなど菓子パンを食べ、あとはコーヒーを飲んで朝食にする。それと同じことで血糖値が急上昇する、バターと砂糖のたくさん入ったクロワッサンは、コーヒーにもよく合うし「小さな昼食」に実にふさわしい食べ物である。
こんなにおいしいものなのだから毎朝おいしいクロワッサンが食べられる境遇にいれば、なにはなくともとりあえず幸福だと思う。その幸福を甘受するには、1日百数十円を出費できる財力と、ハイカロリーをものともしないちょっとした胆力さえあればいい。
クロワッサンがなければ一日がはじまらないという人は意外と多い。あるパン屋さんには毎週土曜日にきて必ず6個クロワッサンを買う男性客がいるそうである。その人は6個のうち1個をその日に食べ、残りの5個は冷凍し、1日1個ずつ解凍して朝食にするという。なぜ7個ではなく6個なのか。1週間に1回ぐらいは浮気をして別のパンを食べたいということなのか、あるいは週に1回は彼女の家で彼女といっしょに別の店のクロワッサンを食べるとか。クロワッサン男の謎はつきない。


パンラボのブログを白夜書房のコーディさんという女の子がはじめました。
http://panlabo.jugem.jp/
私も含めいろんな人が書き込むことになっています。お暇だったら覗いてみてください。