静寂の作用

projetdelundi2007-12-05

きのうのつづき。
阿佐ヶ谷団地は信じられないほど静かだ。
住居にはところどころ板が打ち付けられて、取り壊しのために住人が退去しはじめている。
団地が死に近づいていることがブラックホールのように静寂を招き寄せているのだろうか。
枯葉が落ちる音を聞いた。
風が吹き抜けるとモミジの木が揺れ、葉ずれの音がススと鳴る。
枯葉は一直線に落ちるのではなくて、パラグライダーのように空気をみずからのからだにはらんで少し滑空し、幾度かの方向転換を描いて2、3個の弧を描いて地上に落ちる。
落下した瞬間に地面の雑草や、先に落ちた枯れ葉と触れ合って、サと非常にかすかな音を立てる。
それは植物としての生命をまっとうするときのちいさな悲鳴のようにも、微笑みのようにも、あるいは単に「あ」という短いため息のような感嘆詞にも聞こえるのだった。
わたしはときおり、自分が「別の時間」に入っていくのを感じることがある。
このとき気づいたのだがそれは決まって静寂のある場所で起こるようだ。
植物たちのささやきが聞こえる場所では、植物の世界に寄り添ってしまうのだろうか。
一瞬が長く感じたり、長い時間が一瞬のように感じられたりするのは、わたしがいつもとは別の方法で時を、植物や死者が感じているような方法で感じとっているからかもしれない。
以前、ここにわたしを連れてきてくれたのはフランス人である。
偶然かもしれないが、わたしのいちばん親しくしているフランス人はふたりとも、行く場所も決めず足の向くままにわたしを連れさまよう。(まるで当たり前みたいにそうするのだが、フランス人はみんなそうなのか、そのふたりが変わっているのか判然としない。)
そうして、この隠し庭のような場所にたどりついたのだった。
そのときも「別の時間」に入り込んだ。
わたしたちは芝生に座って、空を見上げて雲の話をしたり、3、4匹が鳴き交わすカラスの会話を聴いて内容を想像したりした。普段そんなことはめったにしないにもかかわらず。
時と人を問わず似たようなことが起こったのだから、静寂の作用は存在するのかもしれない。