ランドスケープ現象

projetdelundi2007-12-22

うつくしいとはどういうことか?
ピクニッケの連載ではうつくしい花が咲くときを選んでその場所に訪れていた。だが十二月に咲く花はない。あっても地味なわざわざ足を運んで見るほどの華やかさを有さない花である。
だから新宿御苑に訪れたとて大した感動はないのではないか、企画が成立たないのではないかと心配していた。
目の前には冬枯れた芝生が広がっていた。ひと月前に見たのとは見違え、茶色に変色している。
鮮やかな紅葉はすべて散り終え、裸の樹々が曇天に向かって黒々とした身をさらしているだけだった。
季節外れの公園を訪れるひとはまばらだった。自分から足を運んでさびしい気分に襲われたいひとなどいない。
無人のただ空漠とした空間の広がり。
この撮影に同行したのは6人。制作をお願いしているデザイン事務所の女性2名、版元の白夜書房の編集の方2名、カメラマンの妻とわたし。
同じ風景を見ているもののあいだには同じ心情が流れるものだ。それが普段見慣れているものではなく非日常的であればあるほど結びつきは深まる。
わたしたちはそのことについてとくに会話を交わしたわけではなかったがいま写真を見ながらそう振り返る。
目に映るものに圧倒されてしまうということだろうか。こころの岸辺を風景の大波に洗われ、こころの塵はすべてどこか沖合に流されてしまい、あとにはさっぱりとした砂浜が現れた、という感じか。
つまり集団現実離れとでもいうべき現象が起こっていたのである。
見ることがこころに痕跡をのこさない鑑賞や観光であることを越え、ひとに変化を促す体験でありうる風景。
冷たい風景はうつくしい花よりもなおうつくしいという発見。