母 (角川文庫)
キリスト教作家の小説を読んでいる。『母』は文庫本のコーナーでどれを買おうか迷っていて表紙を見て買った。
茶を基調にいろんな色が塗りこめられたざらざらした感じの地に「母」というピンク色の文字。「母」の下に「三浦綾子」とあるだけで聖母マリアを想像する。けれども、これは小林多喜二の母について書かれた小説である。
小林多喜二の生家は貧乏な家だったが、明るく愛に満ちた家庭だった。帰ってきた子供たちが学校で起こったおもしろいことを次々報告するので、パン屋にお客がきても気づかずよくパンを盗まれるという話。多喜二は初月給の半分をはたいて弟にバイオリンを買ってあげ、それはずっと貧乏だった母にとってそれまで生きてきたなかでいちばん幸せだったという話。そして、母はおいしいぼたもちができたら近所に配って歩いてそれが幸せだと思うような人である。
母親の愛に慈しまれて育った小林多喜二は、搾取される貧しい人々を放っておけずに『蟹工船』を書いた。書かれてから70年も経ってそのメッセージを何十万という読者が受けとっている。誰かが誰かに対して行う愛はリレーとなってまた他の誰かに手渡され、世界へ広がっていく。必ずそうなるとは限らないけれども、そうなることもある。そうした希望がこの本にはある。
小林多喜二は警察に捕まり、足を千枚通しで何カ所も刺される拷問を受け、心臓マヒで絶命する。死体となって帰ってきた多喜二に頬擦りしながら母はいう。
「ほれっ! 多喜二! もう一度立って見せねか! みんなのために、もう一度立って見せねか!」
母は、自分のためにではなく、通夜に駆けつけてくれたひとびとのために立てと叱咤する。そこに親心の普遍がないだろうか。
磔にされ絶命したキリストを十字架から下ろして抱く聖母マリアも同じ心境だったかもしれない。マリアもまた、イエスが神の子であることと、自分の愛する息子であることのあいだで、苦しんでいたように思われるから(その悩みをひとに打ち明けることもできずに)。自分の子供が自分だけのものであったなら、共産主義の小説を書くことも、危険なエルサレムに入ることも、やめてくれと制止したはずである。けれども自分のものではなく、子供は子供自身であり、多くのひとびとのために生きている。(ひとのために生きよと願ったはずである。その矛盾。)
小林多喜二とイエスは足を串刺しにされ死んだことまで同じである。