ヴェロニカ

projetdelundi2008-05-07

『聖書のなかの女性たち』という新訳聖書に登場する女性たちの生きかたを取り上げた本がある(単行本版の表紙はシャルトル大聖堂のうつくしい薔薇窓だった)。
遠藤周作はこういう意味のことを書いていた。
「あらゆる女性たちは聖母マリアとイブの中間に位置する」
処女懐胎した聖母マリアは穢れなきものあるいは母性の象徴である。禁じられた林檎を食べて楽園を追放されたイブは罪深さのシンボルである。すべての女性はこの両極端のあいだで生きることを余儀なくされる。
この本のなかで深く印象に残ったのはヴェロニカである。
先日のブログで「十字架の道行」について書いた。キリストが十字架を背負って処刑場まで歩んでいく苦しい道中は聖書のクライマックスシーンである。沿道を取り巻いたひとびとから悪罵と唾を浴びせられ石をぶつけられたキリストの顔は血で汚れていた。
それを見たヴェロニカは駆け寄って手に持っていた布でキリストの顔を拭いた。すると血の染みによって布のなかにキリストの顔が浮かび上がる奇跡が起こった。
ひとびとは轟々たる非難をキリストに浴びせ血祭りにあげていた。けれども、ヴェロニカひとりは苦しそうなひとを目の当たりにして人間として見捨てておけなかった。そのために、思わず近づいて持っていた布をキリストに渡したのである。
ヴェロニカは聖書に一瞬だけ姿を現す脇役にすぎないけれど、女性に備わったホスピタリティという美徳を体現している。(女性のやさしさがなければ世界は一日だってまわっていかない。)
ヴェロニカは娼婦だった。売春はユダヤの律法にもとる行為とされ、娼婦という存在はひとびとにつま弾きされた。でも、善人はもちろん、罪深いひとの苦しみこそ進んで分かちあおうとしたのがキリストだった。そう遠藤周作は書いている。
ヴェロニカはイブの罪深さとマリアのやさしさを共に備えた女性だった。むしろ娼婦という罪深くつらい境遇にあったがゆえに、キリストの苦しさを理解し、慈悲を与えることができたのかもしれない。そう考えると、両極端に思えた罪とやさしさ、マリアとイブが重なり合ってくる。
(写真=「十字架の道行」がある桐生の聖フランシスコ修道院の礼拝堂)

聖書のなかの女性たち (講談社文庫)

聖書のなかの女性たち (講談社文庫)