イエンセン

projetdelundi2009-04-04

東京にデニッシュがおいしい店はたくさんある。しかしイエンセンのような店はイエンセンだけだ。デニッシュというとフルーツののった色鮮やかなものを連想するが、ここのはチョコやカスタードやシナモンが入っている質実剛健なもの。スモーケアとかティビアキスとかデンマークの名前がついている。そういうかなり個性的なパン屋なのに住宅街に馴染んでいる。マスメディアやシェフの個性によって遠くからお客さんを呼び集めるスター的なパン屋さんではなく、古くからある地元密着型のパン屋である。
私はときどきイエンセン病にとりつかれる。代々木八幡の近くを通りかかるとどうしてもイエンセンに寄らずにいられない。デニッシュなんてどこで買ったっていいじゃないかと思われるかもしれないが、どうしてもイエンセンでなくてはならない。このコクやさくさく感は他の店では味わえない。素朴な味である。個性によって作り出した味じゃなくて、時や生活が紡ぎだした味というか。
「パン・ラボ」の開催される当日、イエンセンは臨時休業になった。律儀にもお店の方はそのことを電話で知らせてくれた。私は連絡先を告げていなかったので、「パニック7」編集部の電話番号をわざわざ探し出して電話をかけていただいた。
なんでもその日ご主人は体調を崩されたとのことだった。30年にわたって毎朝3時(あるいは2時)に起きてパンを作りつづけてきた無理がたたったのである。休みは週一日、朝6時50分に店を開け、朝食用のパンを売るためにはどうしても3時に起きなくてはならない。
ヨーロッパなら早朝から開けるパン屋は珍しくない。朝食で食べるパンはその朝に買うからである。日本ではそういう人はそんなに多くはないと思うが、イエンセンは早朝から営業する。
ご主人はデンマークでパンの学校を修了した人である。そうまでしてデンマークでパン作りを学んだ人はおそらく自分だけだろうとご主人はいっていた。というのは日本人がデンマークに留学するのはほとんど不可能だから。ご主人は八方手を尽くし、もうダメかと思ったらほとんど行幸のように製パン学校に入学できた。
そこで学んだ通りを30年間つづけた。ご主人の律儀で愚直な人柄は、電話の一件や早起きの件からもうかがえる。首都コペンハーゲンにはもう昔ながらのやり方でパンを焼く店はほとんどないそうである。添加物を使ったり、冷凍生地を使ったりとほとんどの職人が楽なほうへと流れた。イエンセンは同じやり方をずっとつづけてきたゆえに、いまやデンマークでもめったに食べられないような伝統的なパンをこの東京で食べられる。
デニッシュとは「デンマーク風」という意味の英語である。デンマークで発明されたデンマークの日常のパン。一説にはウィーンからきたパン職人がバターをパイのようにパン生地の中に折り込む方法を編み出したといわれるが、真偽はわからない。クロワッサンやブリオッシュをパリに持ち込んだのもウィーンのハプスブルグ家からルイ王朝に嫁入りしたマリー・アントワネットの連れてきたパン職人だといわれているから、これも本当かと思ったが伝説だそうである。しかし、大量のバターを使うデニッシュは乳製品の豊富な酪農王国であるデンマークという土地柄が生んだものであることはまちがいない。
甘いデニッシュは本来おやつやデザート用で、朝食には塩気も甘さもないデニッシュを食べるそうである。このデニッシュの中にチーズや野菜をこれでもかとたくさん挟んで食べる。そのことでも乳製品を中心としたデンマークの食のあり方がわかる。パンというのはどんなパンでもそれを生み出した食文化と密接に関係している。パンのことを調べるたびにそれがわかる。
さて肝心の問題、イエンセンのデニッシュは本当にイエンセンでしか食べられないものなのか、私の錯覚ではなく実際に味がちがうのだろうか?
デンマークではバターが60%以上入っていないとデニッシュ(ヴィエナ・ブロート)と呼んではいけない。ところが北欧とは気候がまったくちがう高温多湿の日本で同じように作ろうとするとバターが溶け出して生地がべちゃべちゃになってしまう。イエンセンでは試行錯誤と日々の努力によって同じように60%以上のバターを入れてデニッシュを作っている。バターの量が日本の普通のデニッシュとイエンセンのそれを分けている。あのコクとさくさくが特別な理由が納得できた。
ちなみにイエンセンのデニッシュがデンマークとすっかり同じであることはピーターゼンというデンマーク人のパンの先生もお墨付きを与えているそうである。(日本で最初にデニッシュを売ったアンデルセンにも作り方を伝授した先生)。
ピーターゼン先生がたまたま代々木八幡を通ったときイエンセンの看板を偶然見かけてパンを買ったところ正真正銘のデニッシュだった。それに驚いて、その後アドバイスをするようになった。毎年クリスマスの前になると来日して抜き打ち検査にやってくるのだという。いつくるかわからないので、クリスマスの頃ご主人はいつも緊張してデニッシュを焼いているが不合格になったことはない。パンは匂いであるというのが先生の持論だそうで、パン屋に入っただけでその店のパンがおいしいかどうか匂いでわかるという。発酵の状態も匂いでわかってしまう。ユニークな方法でパンの検査を行う。玄関の扉を開けはなして風が入るようにして自宅の1階に置いたパンを、2階で待ち構えて匂いを嗅ぐ。
ピーターゼン先生は「イエンセンみたいなパン屋がデンマークにもっとあればいいのに」というそうである。